西洋史部会2025

 

一、古代エジプトの「語り」による癒し

―医術文書と文学にみる精神的苦痛の受容と回復―

広島大学 𠮷田美月

 古代エジプト新王国時代初期(前一五五〇年頃)の医術文書P.Ebersには、精神病に関する記述群「心の書」が含まれる。そこには症状の原因に言及がある一方で、対応する具体的な治療法は記されておらず、Clayton(二〇二二)の研究でも治療記述の欠如について検討されていない。この研究史上の空白を補う手がかりとして、本研究では中期エジプト語文学作品に着目する。登場人物が精神的苦痛を受容し回復する描写を含むこれらのテキストは、精神病治療の在り方を検討する上で有力な史料となる。複数の文学作品を分析すると、精神の安定を取り戻す一手段として「語る」行為が特別な意味を持つと読み取れる。言葉の重要性は当時の多様な文書・実践の中に見出され、語ることが精神的苦痛の緩和を果たす方法として認識されていた可能性がある。本報告では、医術文書と文学の横断的分析を通じ、古代エジプト人が「語り」を通じてどのように精神的救済を図ったのかを明らかにする。

 

 

二、ルネサンス期イングランドのエリザベス表象における処女性像の構築と変容

              広島大学 緒方友香

 宗教改革の混乱のなかで即位したエリザベス一世は、生涯独身を貫き、およそ四五年間にわたってイングランドを統治した。「処女王」とも称された彼女は、即位当初からイングランドを「夫」とすることを宣言し、演劇・祝祭・文学・肖像画といった多様な媒体において、「処女王」に相応しい理想化された女王像が構築されていった。しかし、近年の研究では、エリザベス一世が当初から非婚を決意していたわけではなく、その転機はアンジュー公との結婚交渉とその破談にあったとする見解が有力となっている。本報告では、民衆層向けの小型肖像画を含む図像表現に注目し、エリザベス一世の処女性像がいかにして構築されたのか、また、その治世を通じて、処女性の表象がいかに変容したのかを分析する。それにより、即位当初の「未婚の女王」から、結婚交渉破談後の「非婚の女王」へと、処女性の内実がいかに変化していったのかを明らかにする。

 

三、 19世紀英領インドにおける売春管理制度とマハルダルニ

広島大学 石井豪

 一九世紀イギリス帝国では、植民地駐屯軍における性病の蔓延が兵力低下を招くとして、帝国の弱体化に直結する重大な問題として認識されていた。この事態に対応すべく創設されたのが売春管理制度である。英領インドでは一八六八年に売春管理制度が設立され、以降、売春婦には営業登録と定期検診を義務付けられた。さらに性病罹患が判明した場合には、直ちに性病専用病院であるロックホスピタルに収容され、完治するまで拘束されることになった。本報告では、英領インドにおける売春管理制度の運用実態を明らかにすべく、インド人売春婦の監督役として現地採用されたマハルダルニに注目する。彼女たちが売春管理制度において果たした役割を考察することで、従来、イギリス本国の売春管理制度廃止論者たちの言説において受動的な存在として描かれてきたインド人女性の、イギリス帝国の運営における能動的な関与の実態を明らかにする。

 

 

四、1940年代後半~1970年代ソ連における女性兵士の「忘却」と再統合

女性兵士の手記の分析から

広島大学 森涼香

 共産主義による男女平等の理念を掲げたソ連では、いわゆる大祖国戦争に際し、およそ百万人もの女性が従軍するという、世界史上に類例のない経験がなされた。しかし、それにもかかわらず、戦後スターリン治世下において、女性兵士の存在は急速に公的記憶から抹消されていった。事実、ソ連における元女性兵士による回顧録の出版が始まるのはスターリン死去の直前の時期まで待たなければならなかった。一九六〇〜七〇年代に至り、ようやくこうした回顧録が相次いで刊行されることで、「回顧録ブーム」と呼ぶべき現象が生じたのである。本報告では、この「回顧録ブーム」の時期に刊行された元女性兵士の手記を分析対象とし、戦後ソ連社会において、元女性兵士がいかなる理由で「忘却」されたのかを明らかにする。併せて、その「忘却」の仕方と形式に着目することにより、元女性兵士が戦後のソ連社会に再統合される過程において求められた歴史的条件を考察する。

 

 

五、近世イングランドの船乗りは不信心者であったのか

~彼らの宗教心性・宗教実践の再検討~

広島大学 井内太郎

 かつてP.バークは『近世ヨーロッパの民衆文化』において、民衆文化(マルチ・カルチャ)に対して、少なくとも4つの主要な集団ないしはサブ・カルチャを特定した。彼が言うには、中でも船乗りのサブ・カルチャは、歩兵のサブカルチャよりもさらに独特なものであった。こうした考え方は、その前提として、バークが通常の民衆文化と基本的に異なるもの、ある場合には二項対立的なものとして、それらのサブカルチャを見做していることを意味している。しかしながら、近年、船乗りの社会史研究が進展する中で、彼らの文化の豊かさや、両文化の相互依存関係が明らかになりつつある。

 そこで、本報告では、そうした研究動向を踏まえながら、16世紀半ばのギニア遠征時に船員たちの作成した遺言書を紐解きながら、はたして近世イングランドの船乗りは不信心者であったのか、とくに彼らの宗教心性・宗教実践について再検討してみたい。

 

 

六、19世紀初頭英領ドミニカにおける黒人兵反乱後の改革

—— 西インド植民地の奴隷制改善政策との関係から

大阪大学 森井一真

 1802年、英領ドミニカで黒人兵による反乱が発生した。この出来事は、1795年以降、イギリス領西インド植民地で進められていた軍制改革を根本から揺るがすものであった。本報告は、この反乱後に展開された対応策を、同時期に他の西インド植民地で進行していた奴隷制改善(amelioration)の実践との関係のなかで再検討するものである。

とりわけ、本国や他植民地における改善的政策が、ドミニカの政策決定層や白人クレオールのエリートたちによってどのように認識されていたのかを明らかにする。フランスとの緊張の最前線に位置していたドミニカにおいて、植民地統治のあり方がいかに再編されようとしていたのかを、西インドにおける改革の時代と戦時体制の交差点として検討する。

 

 

七、 19世紀後半フランスにおけるブルジョワ女性向けファッションとその意味変遷

:『ラ・モード・イリュストレ』の分析を通じて

九州大学 安達漱也

 19世紀後半フランスでは、ファッションが近代化と強く結びついていた。とりわけブルジョワ女性向けファッションは、第二帝政から第三共和政への体制転換の中で「フランスらしさ」の象徴とされ、様々に意味づけられてきた。先行研究もこの点を踏まえ、当時の女性向けモード雑誌をイデオロギーの拮抗・闘争の場と位置づけ、誌面分析をおこなっている。とりわけ1860年から1937年まで刊行された『ラ・モード・イリュストレ(LMI)』は、知名度・発行部数ともに群を抜いており、史料としても頻繁に参照される傾向にある。しかし、LMIが過去の流行を参照しつつ、ブルジョワ女性向けファッションの意味づけと評価をおこなってきた事実については、これまでほぼ論じられていない。そこで本報告では、IMLにおける女性向けファッション史の総括と「望ましい」ファッションの提示を分析することで、そこからフランス近代化の一側面を考察したい。

 

 

八、19世紀末ドイツにおけるユグノー協会の創設と宗派難民の記憶

―初代会長アンリ・トランの宗派意識と周囲の反応をめぐって―

京都大学 林祐一郎

 「1888年7月312日にロンドンのエクセター・ホールで開催された汎長老派会議は、その賛同者たちのきわめて大胆な期待を大きく上回った。世界五大陸全ての2千万人の改革派キリスト教徒たちが、そこで代表されていたのである」。ドイツのフランス改革派教会の代表として国際会議へ派遣されたアンリ・トラン(1833-1902)は、同胞たちへこう書き送った。彼は、近世にフランスで迫害を受けてプロテスタント諸国へ亡命したユグノーの末裔である。2年後、彼はドイツ・ユグノー協会(DHV)の初代会長となる。ユグノーの「その後」を語る文脈で、彼らは一方で「成功した移民」と評され、他方でナショナリズムとの親和性が批判的に論じられてきた。だがDHV創設は、単に外国との繋がりを想起する試みでも、「第二の故郷」への忠誠の意思表示でもなかった。本報告はこのトランを例に、近代における宗派難民の記憶の復興を、当時の教会情勢との関わりから考察する。

 

 

九、中立の実践—第一次世界大戦期のスイスと赤十字国際委員会

慶應義塾大学 舘葉月

 第一次世界大戦期、多くの国が参戦する中で、中立を維持した国は、中立を効果的に実践することで、国際情勢における自らの立ち位置を確保しようとした。本発表は、近年の中立をめぐる研究史上の刷新も踏まえつつ、スイス政府と赤十字国際委員会(ICRC)という二つの中立主体の、主に捕虜への救援活動をつうじた「中立の実践」のあり方を考察する。スイス政府は、自国への捕虜の収容や捕虜交換交渉を通じて中立国としての人道的役割を果たそうとした。ICRCは、捕虜の保護、待遇改善、帰還促進に尽力し、中立性を掲げながらも複雑な外交・実務上の課題に対処した。それぞれの戦時から戦後にかけての捕虜救援の具体的活動を明らかにしながら、両者の協力関係はいかなるものだったのか、それぞれの活動成果は、戦後、中立の価値やあり方にどのような影響を与えたのかを検討したい。

 

 

十、 ワイマル期からナチ期のドイツ・ユダヤ社会の研究動向

広島大学 長田浩彰

 報告者は、第二帝制期からワイマル期にかけてのドイツ・ユダヤ人社会の動向を、彼らのドイツ・ナショナリズムとユダヤ・ナショナリズムのせめぎ合いという観点で、それぞれを代表する「ユダヤ教徒ドイツ国民中央協会」と「ドイツ・シオニスト連合」という二つの団体の対立関係を軸に考察してきた。しかし、二〇一〇年代以降の研究動向を見るに、両組織の単純な対立を超えて、ワイマル末期における両者の協力関係を分析する研究や、ドイツのシオニズムに関しても、パレスチナ建設という政治運動以外の諸相をも追うシンポジウム「ドイツ語による様々なシオニズム」(二〇一七)が開催されている。そのタイトルには、Zionismusの複数形なる新造語としてZionismenが掲げられていた。本報告では、それらの研究から、この時期のドイツ・ユダヤ社会のどのような新側面が見えてくるのかを考察したい。